今日も生きていこう

思慮深い(考えすぎな)早稲田大学文学部3年生の女が、「実践運動家でなければ哲学者になれないし、哲学者でなければ実践運動家にもなれない」という言葉を受けて、実践の一つとして試みるブログです。

ボーヴォワール『人間について』 など

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1週間ほど前ですが、ボーヴォワールの『人間について』を読みました。

 

未来の人間や、遠くの人間を思って身動きが取りにくくなっていた私にとって、多くの発見を与えてくれた本になりました。

 

「しばしば、青年は煩悶します。この充満している中にどうして自分を割り込ませたらいいか?と。海には一滴の水さえ不足していません。彼の生まれる前にも、人類は、きっかりこのとおりに充満していました。彼が死んでも、やっぱり充満していることでしょう。」

 

これは、誰もが考えることだと思います。私もこのような考えに親しみやすい人間でした、というか、今も考えているのかな…

それと同時に、自分の存在を割り込ませることに、なんとも言い難い苦痛も感じていました。バンプの『カルマ』という曲を思い出しますね〜〜

 

「寛大な人なら、自分の行動は他人の外側にしか達しないことを弁えて(わきまえて)います。」

 

そうですね、ここにも線を引きました。

これを踏まえた上で、それでもなお他人と関わろうとする意志を大切にしなくてはならないと私は感じています。

 

 

「どんな拒絶も選択であります。どんな沈黙も声であります。われわれの受動性さえもが、意欲されたものなのです。」

 

鋭い言葉…本当に。

私の沈黙も、声なのだよ。

だけれど、私の沈黙は終わらせなければならないのだ。

書かなければ。

草や木や猫との会話に励むことで、人間との会話が難しく感じるようになってしまったことはないですか?

ああ、多和田葉子さんの作品を読みたい。

 

ジャン=ポール・サルトルが、≪否定的なもの≫と呼んでいるところのもの、すなわち、空虚、欠乏、不在が、世界の中に忍び込むのは。ただ人間の現存によるのみだということを、われわれは知りました。ある種の人たちは、この否定的なものの持つ力を行使するのを拒絶します。彼らの周囲にあっては、全てが充実しているからです。彼らは、他のいかなるもののためにいかなる場も見ません。新規なものは何にかぎらず彼らを威(おど)します。彼らには改革も力ずくで課さなければなりません。<むかしはこんな発明がなくてもけっこう住めた>と、彼らは言います。それに反して、他の人たちは待っています。彼らは希望し、要求します。しかし、彼らが要求するのは、わたくしではありません。そのくせ、わたくしが彼らによって必要なものだと思われたいのは、わたくしの存在が特異だという点においてです。わたくしの書く書物は、あらかじめ穴ぼこの形にきちんと合わせておいて、その穴ぼこを埋めに来るわけではありません。最初に書物が存在しているのです。ひとたび書物が存在するや、この現存を不在の裏側として捕らえるのは読者のすることであります。つまり、読者の自由性のみがそれを決めるのであります。」

 

 

最近の私のテーマは、「不在」です。

例えば電車内のボックス席で、見知らぬ人と膝をつき合わせて一つの空間を共にしますよね。

その人がいなくなる…ついさっきまで私は確かにその人のことを感じていたのに。その人がここに存在していた証拠は、私の感じている彼の不在、しかない…そして、彼のイメージも徐々に曖昧なものになり、薄れてしまう。

 

また、付き合っている人とセックスする。

他のどんな人間よりも近くにいて、その人を感じて、存在を確かめて、けれども、さっきまであんなに近くにいたのに、今は彼を感じることができない。

存在、不在、存在、不在………

もし仮に、今私が事故にあって死んでしまっても、彼が事故にあって死んでしまっても、その不在を、「不在」として互いが認識するのは、随分とあとのことになる。

 

私は他人のことをどこまで知ることができる?

 

 

 

 

 

「自由であること、それは、計算もなく、賭金もなく、世界の中に身を投げることです。」

 

 

「愛し、欲し、為すことが必要であります。」

 

 

 

みなさん、愛し、欲し、為しましょう。

私も、愛し、欲し、為します。

 

苦しいけれど、孤独だけれど、愛し、欲し、為す。

そうして世界に存在していく。

 

 

東京少女

 

キラキラ輝くネオンの光が少女の顔を照らしている。

 

立ち止まってはいけない。

立ち止まってはいけない。

 

少女以外の人間には、目的地があるのだから。

 

たとえ薄汚れた月が少女を呼んでいようとも、立ち止まってはいけないのだ。

 

涙のにじんだ目で少女は思う、

東京という街に、殺されてしまいそうだ。

 

ざわめきが少女をとらえる。

香水のにおい、無数のヘッドライト、道端のゲロ、欲望の予感、はっとするような笑い声、幸福の置き場。

 

 

私は、私を、見失ってしまう。

 

ひとは、現れては消える。

 

少女もまた、どこかへと消えたいった。

 

さて、

何処へーーー。

 

 

自らの行為を申し開くということ

「世人と交り、彼との間の遣取(やりとり)が一向に儘(まま)ならぬ時、私が更なる詞(ことば)を以て理解せらるを求めむとせぬのは、ただに煩を厭う故のみではない。その為に費される膨大な詞が、私には徒(あだ)ごとのように思われるからである。私の裡(うち)なる諦念は、理解を欲する情を、快不快の情に簡単に結んでしまう。日常の束の間の快の為に、多言を用いることを私は潔しとしないのである。加えて、世人の無智(むち)が、全体私の理解せられることへの希望を絶ってしまう。これは人をして、私を驕慢と云わしめる所以の心情である。しかし、敢えて反駁するならば、この驕慢は、別段独り私にのみ存ずるものでもあるまい。斯云うのは、私よりも遥かに学識優れた者の為には、私に解されむとする努力も亦(また)、等しく虚しいものであろうと思われるからである。」
(平野啓一郎日蝕』より)

 

 

私は決して驕慢な態度を示すことはしませんでしたが、言葉を尽くして説明しても徒労に終わるだろうと判断した人の前では、本質的な部分で沈黙していました。だから、上に引用した平野啓一郎さんの小説内の文章に深い共感を覚えました(ちなみに平野啓一郎さんの作品、特に『決壊』は多くの現代人に読まれるべきだと思います。長い小説ですが)。

 

私が今まで会って直接話をした人々の中で、沈黙をある程度取り払うことができた人は、本当に少ないです。一人の社会人の方と、一人の友人です。その二人に出会えたことは私にとって大きなことでしたが、心の底から共鳴する人物なんぞ、いないのかもしれません。

 

ただ時として、何も発言しないことは何も考えていないことと同じになってしまいます。
そのことは常に考えていて、けれども私自身は生きることと文学とがほとんど同義であるような人生を送ってきたため(それは博識であることとはまた別です)、言葉の限界と可能性をものすごく感じていて、それゆえに間違った言葉を発したくないという強迫観念に近い想いを抱えていました。

だけれど、早稲田大学で、この教授は信頼できる人物だなと感じている方が、
「人間は、自らの行為の理由を尋ねられたときに、申し開くことができるのだ」
(ノート上で要約しているので一語一句そのままではないです)
とおっしゃられていて、今の私にの心にとても響きました。
「申し開く」は、「account ability」と言い換えることができるそうです。「account ability 」の日本語訳を辞書で調べると、「責任を負うべきこと、説明責任」とあります。

私は、少しずつでも良いから私の行為に対する「account ability 」を実践していこうと思います。
すなわちこの投稿はその第一歩です。

 

 

 

やはりどうしても、私は今の社会が間違っている方向に進んでいるように思えます。結局のところほとんどの人々は、自分自身と自分の周囲の幸福を追求して生きているように見えます。それによって他者だったり、人間以外の何かだったりに対して代償を要求することは厭いませんね。不思議なことです。
ただ、かく言う私自身も両親に守られて今まで生きてきていますから、父と母の私への気持ちを踏みにじることはできるだけしたくない…….けれども、自らのその想いを乗り越えなくてはならない時はやって来ると思います。将来の人間たちと世界全体(人類も含めた)を見据えて生きていかなければならないから。これはあくまで個人的に強く感じているだけですが。

イデオロギーとは、
「歴史的・社会的立場に基づいて形成される、基本的なものの考え方。観念形態。一般に、政治的・社会的なものの考え方。思想の傾向。」(明鏡国語辞典より)
と定義されています。
私たちは、知らない間に様々なイデオロギーに支配されてしまっています。そして(無意識に)それに基づいて生きています。

 

そういったイデオロギーはそれこそ山ほどあると思いますが、最近特に感じているものは、
「講義に出て単位をもらえれば良い」です。

ある授業に出席し、授業内ですらあまり講義内容のことを考えず、さらにもちろん授業外ではその内容について全く再考することをしないという行為に、そこに費やされる時間に、一体どのような価値があるのでしょうか?
もちろん、卒業して安定した職を得る一番の近道は大学を卒業することでしょう。

 

………

 

私はそれを、そういう考えによって行動している人を否定はしません。なぜならそういった考えは、少なくとも今の日本社会で生きていくことを容易にする場合が多いと思うからです。

けれども、どうしても私は違和感を拭い去ることができません。

 

 

最後に、新聞記事を一つ。

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切り抜いたものを写真に撮って載せたのですが、これは確か私が高校生(正確な日付を記録していないことが悔やまれます)のときに発見したものです。ただ、「私とほとんど同じ年齢の少年だ…」と感じたことを覚えているので、高2もしくは高3の頃だと思います。
川口と浦和の距離の近さも、当時の私の心にこの少年の存在が刺さった大きな要因でもあります。

私はそれからずっと、写真立てにこの記事を挟んで自室の机の上、よく見える場所に置いています。

そして、「この少年と私の違いは一体何だったのだろう」ということを考え続けながら生きています。

とにかく、考えることを止めてはいけないのでしょう。

 

(これは少し前に考えた文章です。私の思考はそのときからも変化しています。変わっていくことを恐れてはいけないのです。)

きみ

きみのこころと

わたしのこころが近づいた、

その日のことをわたしは知らない。

 

きみを初めて見つけたときか。

きみを名前で呼んだときか。

 

きみはそこにいる。

 

きみは優柔不断であるから、

わたしは辛抱強い人間になった。

 

それともそれは、元からか?

 

きみはわたしを見つける。

きみはわたしの帰りを待っている。

 

きみがわたしを慰めるとき、

わたしはきみを、壊したくなる。

 

わたしはきみに、強制しない。

 

きみは優柔不断であるのに、

強制されるとプイとする。

 

へそ曲がりなきみ。

 

知っている。

 

きみは、近くにいる。

 

きみの前でオナニーをする。

きみのホクロの数をかぞえる。

きみの身体に顔をうずめる。

きみの牙を撫でる。

きみの目やにをとる。

きみを抱きしめる。

きみを好きだと思う。

 

きみを、鬱陶しく感じる。

 

わたしの、邪魔を、しないでほしい。

 

きみを置いていく、

目をそらして。

 

 

そして今日、

 

きみはちゃんとわたしの近くにいる。

 

わたしはきみを感じる。

 

鬱陶しいと、愛しているは、近い。

 

矛盾だ、と、人はいうか?

 

けれどもきみの、

不在を感じる、

ほかならぬわたしだから。

平野啓一郎さん

今日は神保町に行って、古本屋巡りをして来ました♪

神保町には初めて行ったのですが、たくさんの古本屋さんがあって、人々がそれぞれに本を手に取っている光景が、私はすごく好きでした。

本と街と人間が自然に共生している感じというか…。

行き帰りの電車ではスピッツを聴いたり、安部公房の「壁」を読んだりしていました。

神保町では学術系の本や、いわゆる古典というジャンルにカテゴライズされている本を買いました。

大江健三郎さんの全集も安く売られていて、やったー!と思って購入しました^ ^

大江健三郎さんの「われらの時代」という作品は特に、私にとって特別な作品です。

まあ、大江健三郎さんについての話も今度気が向いたら書きたいです。

そしてその反動…とでも言いますか、久しぶりにどうしても現代の作家の作品を貪るように読みたい(最近は知を得ようとして、学習机で鉛筆を持って気になるところに線を引きながら本を読むことが多いため、本を読むことを純粋な娯楽として楽しみたかった)と感じて、地元の図書館で現代作家の本を借りました。

その中の一つが、平野啓一郎さんの「高瀬舟」。

高瀬舟」は、以前読んだことはありましたが、彼の作品を多く読んだ今、再び読み直したいと思って借りました。やっぱり平野啓一郎さんは、天才的な部分がありますね。

個人的に、現代の日本に生きる人々に読まれるべき本を尋ねられた場合、平野啓一郎さんの「決壊」は迷わず挙げます。

平野啓一郎さんに脱帽する機会はそれこそ数え切れないほどありますが、彼のすごいところの一つは、第一作品の「日蝕」を書いているときから既に、"自分の全集を意識して"いたことです。

目先の名声や欲望や必要に屈せず、自らがやるべきこととして小説を書いていたのですね。

日蝕」「一月物語」「葬送」のような作品に取り組むことは、今の時代、本当に難しいことだと思います。

ただ、これらの作品がなければ今の平野啓一郎は存在しなかったのです。

(実際、日蝕は私もまだ最後まで読み切れていません。)

平野啓一郎という作家が存在することは、文学の世界…今の日本、世界全体…にとって、希望であるなと私は感じます。

さっき「高瀬舟」を読んで、なんとなくサカナクションの山口一郎さんにも通ずるところがある?と、ふと思いました。

どうなのだろう。

スピッツ草野マサムネさんは、その世界とはまた違うな、とも(私はスピッツからものすごく影響を受けています)。

(以下は雑記)

どんな形でもいいから、文学を通じて、他の人間と関わりたい。

そのためには、文学の世界に私も、参加することが必要だよね。

大学院に進もうとは考えているけれど、それはまだ自分が学ばなければならないことが多いと感じるから、自分はおそらく一生研究することはやめないと思うから、なのだけれど、私はどうやって文学に関わっていくのだろう?

だめだ

そういうことが書きたいわけではなかった。

書いた文章が自分から離れていってしまった気がする。

私は….

自分だけを特別だとは思いたくない。

イデオロギー、現実…嫉妬…

勉強の孤独

簡単な自己紹介のようなもの

こんにちは、今日から5月☀️

雨も止んで、いい天気です。

 

私は早稲田大学文学部に通う、3年です。

 

私は中学くらいの頃から、世界が間違っている方向に進んでいる気がする…と感じる気持ちを長い間抱いていて、簡単に言うと生存危機の状況に陥ることがよくありました。

ただ、最近ようやくそこを抜け出したのではないかと自覚しています。

 

私は、自分の精神が危機的状況に陥る度に読書をすることでなんとか生き延びてきました。というより、私の人生は本を読むことと共にあったと言っても良いと思います。

そういうわけで、私がもっぱら親しんできたのは「話し言葉」ではなく「書き言葉」でした。

私と同じように「書き言葉」に親しんできた人々はおそらくSNSで発信することが得意ではないだろうと思います。私もそうです。けれど、そういう人間がSNSで発信することも、もしかしたら時には意義のあることになるのかもしれません。

 

最近では大学の授業で、「書き言葉」と「話し言葉」の違いは確実に存在すると何人かの先生もおっしゃっていて、その違いに悩むことはおかしなことではないのだなと安心しているのですが、高校〜大学1年の頃は自分が「話し言葉」の文化に馴染めないことを苦しく感じていました。私が必要以上に道化のように振舞っていたり、逆にずっと黙っていたりするのを不思議に感じていた人もきっといるだろうと思います。

基本的に、「話し言葉」というものは物事を単純化します。伝えたいことを明確に、簡潔にすることが求められる場合が多いです。ただ、わかりやすい説明のために選択された言葉が、それだけが相手には伝わってしまいます。そこからこぼれ落ちてしまうものが確実にあります(それは「書き言葉」にもありますが、相対的に少ないです)。長い時間をかけて話し合う、となればまた話は別ですが……。

 

 

前置き?のようなものが長くなりましたが、「書き言葉」に親しんで生きてきたというのは前提のようなもので、それに加えて20歳になって少しずつ自分の特質というか、譲れないことというのがわかってきました。

 

一つ目は、自分の言動によって他人を傷つけたくないという性質です。

意識的に、というのももちろん避けるべきことですが、私個人としては、悪意なしに、無意識に他人を傷つけてしまうことが最も良くないことだと感じています。

例えば、そこに第三者が存在する場合には、ある友人や組織に向かって、必要以上に好意を示すことは極力しないようにしています(第三者が少しでも嫌な気持ちになることが予想された場合)。この、第三者の疎外というのは日常でよく発生しているように思います。

 

上の例は近くの他者に対してのものですが、それは遠くの他者に対しても言えることです。日本に住んでいる人間、特に私のように衣食住に満足している人間はやはり全世界で相対的に見て、物質的に恵まれています。

餓死や戦争など、逼迫した死が身近なものではないという有り難さは、どう考えても感じるべきことです(北朝鮮のミサイル問題などはありますが、少なくとも私たちは今この瞬間は無事です)。

苦しんでいる人々をどうにか救いたいと、実際に外国に行き直接活動する方もいて、すごく尊敬します。ただ、私はそれとは違うアプローチで、資本主義社会という構造そのものや歴史などを学んで解決方法を見つけていく努力をしようと思っています。途方もなく長い道のりになるでしょうが…。

私が資本主義社会で働き、物を買うという行為が間接的に誰かを搾取していることになる…と一人が考えることは微力ですが、少なくとも私はそういう人間であることを辞めるつもりはありません。

 

ただ、他人を傷つけた経験は私にももちろんあります。

そのうちの少なくとも2人には心から謝りたいと思っています(もう忘れているかもしれないですけれど)。

 

 

 

譲れない特質としての二つ目は、世界がどのように成り立っているのかを知りたいということです。

ただ、現在の社会では学問は細分化されており、そのうちの一つの分野でさえも、網羅するのに途方も無い時間がかかることが多いです。だから、学ぼうとする者はまず、自分がどのようにアプローチするのかを自力で決めなくてはなりません。それは、学問を志しはじめた若者にとってはとても難しい問題だと思います。私も、どうしたらいいのか、何から学べばいいのか途方に暮れたことを覚えています。高校の勉強も、一時期はまったく手につきませんでした。その時に私を救ったのは本、特に文学でした。だからと言ってしまえば単純ですが、大学は文学部に行こうと決めました。

また、情報社会の影響や図書館サービスの充実などにより多くの本、情報が手に入るようになり、読むべきとされる本、知るべきとされる事柄がとてつもなく多くなりました。

それゆえに世界を知ることは究極的には不可能で、社会は驚くほど複雑だということが、直感的にわかる世の中になったのです。だからこそ、「自分がやるべきことはないのかもしれないな、自分はなぜ生きているのだろう」と思ってしまう若者はたくさん存在するでしょう。

もしかしたら、聡明な中高生ほど、希望が見えなくて自殺という道を選んでしまうのかもしれないと私個人としては考えています。

私自身も「死にたい」と思ったことは2000回くらいありますが、今は純粋な欲求として世界を知りたいと思っている自分を積極的に受け入れることができたので、まだ死にたくないと感じています。だから、どんな人も、死にたくて消えたくてわからなくて自分が存在意義のない生き物だと思えてどうしようもなくても、もう少し生きてみて欲しいです。今の社会に自然に順応できないような人こそ、絶対に生き延びてほしいと私は強く思っています。時間は偉大です、、。

また、今まで生きてきて、人々はマスコミに驚くほど操られているなと感じてきました。

本当に…どうしたらいいのでしょうかね…。

テレビが完全に悪だとは言い切れませんけれども。

例えば明日ミサイルが日本に落ちたとします。その場合、100年後に生きている人間が「歴史」として今の私たちを評価するならば、

"馬鹿だな、ミサイル落ちる前日にも、ニュースでグルメやファッションの特集を何のためらいもなく見て何の疑問もほとんどの日本人は感じていなかったんだ"

といったものになることだと思います。

 

うーん…大きな、なんというか…システムのようなものには逆らえないのかもしれませんが、これで、こんな状態でいいのかな?とはどんな時でも私は疑問に思っています。

 

今の社会でどのように生きていくべきか、

それを考えて判断するために自己の内側を探検していたのは19歳までの自分。

今は、既存の知を学ばないと…と心から思って良い意味で焦っています。

 

なんというか、ブログを始めたのは、どんなことを考えていてもそれを誰かに伝えられるような形にしないと、何も考えていないのと同じなのだという考えを持ち始めたことが大きな理由です。

 

とにかく、20年間色々なことがありましたが、結局どんなことも、私から知に対する欲求を完全に無くしてしまうことはできませんでした。

 

 

 

そして最後に、ようやくですが、私には(大きな)団体活動は向いていないのだと自覚しました。大きなものの思想、価値観に支配されてしまうのが自分にとっては何よりも怖いのだと思います。

言い換えると、権力が苦手だということです。

だから、これからの人生も、おそらく権力の周縁で、権力を抑制する存在として生きて行くだろうと思います。

ただ、そういう風にしか生きていけないことに、時々ものすごい寂しさを感じます。私はもしかして本当に冷たい人間なのかもしれない…と思うこともあります。

 

 

……今回はこの辺で。