平野啓一郎さん
今日は神保町に行って、古本屋巡りをして来ました♪
神保町には初めて行ったのですが、たくさんの古本屋さんがあって、人々がそれぞれに本を手に取っている光景が、私はすごく好きでした。
本と街と人間が自然に共生している感じというか…。
行き帰りの電車ではスピッツを聴いたり、安部公房の「壁」を読んだりしていました。
神保町では学術系の本や、いわゆる古典というジャンルにカテゴライズされている本を買いました。
大江健三郎さんの全集も安く売られていて、やったー!と思って購入しました^ ^
大江健三郎さんの「われらの時代」という作品は特に、私にとって特別な作品です。
まあ、大江健三郎さんについての話も今度気が向いたら書きたいです。
そしてその反動…とでも言いますか、久しぶりにどうしても現代の作家の作品を貪るように読みたい(最近は知を得ようとして、学習机で鉛筆を持って気になるところに線を引きながら本を読むことが多いため、本を読むことを純粋な娯楽として楽しみたかった)と感じて、地元の図書館で現代作家の本を借りました。
「高瀬舟」は、以前読んだことはありましたが、彼の作品を多く読んだ今、再び読み直したいと思って借りました。やっぱり平野啓一郎さんは、天才的な部分がありますね。
個人的に、現代の日本に生きる人々に読まれるべき本を尋ねられた場合、平野啓一郎さんの「決壊」は迷わず挙げます。
平野啓一郎さんに脱帽する機会はそれこそ数え切れないほどありますが、彼のすごいところの一つは、第一作品の「日蝕」を書いているときから既に、"自分の全集を意識して"いたことです。
目先の名声や欲望や必要に屈せず、自らがやるべきこととして小説を書いていたのですね。
「日蝕」「一月物語」「葬送」のような作品に取り組むことは、今の時代、本当に難しいことだと思います。
ただ、これらの作品がなければ今の平野啓一郎は存在しなかったのです。
(実際、日蝕は私もまだ最後まで読み切れていません。)
平野啓一郎という作家が存在することは、文学の世界…今の日本、世界全体…にとって、希望であるなと私は感じます。
さっき「高瀬舟」を読んで、なんとなくサカナクションの山口一郎さんにも通ずるところがある?と、ふと思いました。
どうなのだろう。
スピッツの草野マサムネさんは、その世界とはまた違うな、とも(私はスピッツからものすごく影響を受けています)。
(以下は雑記)どんな形でもいいから、文学を通じて、他の人間と関わりたい。
そのためには、文学の世界に私も、参加することが必要だよね。
大学院に進もうとは考えているけれど、それはまだ自分が学ばなければならないことが多いと感じるから、自分はおそらく一生研究することはやめないと思うから、なのだけれど、私はどうやって文学に関わっていくのだろう?