落ち着くために、書いてみたけれど
私は、月のような人間になりたい。
平塚らいてうは、原始、女性は太陽であったと言ったけれども。もちろんそれは、心に残る、力のある文章ではある。ただ、今を生きなくてはならないから…。
確かに、私自身も太陽のような人間がいるから死の危機を乗り越えたのだよなと思うこともある。ある、というか、いつも思う。
一番身近な太陽は妹。最終的に憎むことのできない愛嬌と優しさがあって可愛らしくて、まさに自らの力で光り輝いている。
私は、自らの力で光るというよりは、まず、そこに存在している。ただ、存在している。
そして、太陽の力を借りて光る。
太陽のような人間のことを馬鹿にしては絶対にいけない。
今までに光を与えてくれた何人かの太陽のおかげで、私は月として光る可能性をやっと得る。
死なずに。
月は、夜になると光る。
月は、夜を照らす大きな光になる。
私は家族に感謝している。今は、父のことも母のことも妹のこともそれぞれに好きだ。
だから、私はこれからどんなことをしていくにしても、家族を大事に思う心と態度は変えない。
人間は、現れては消えていってしまう。
どこへ消えるのですか。
その不在は。
私を生かしてくれた大きなものは、家族と猫を除くと三つある。
まずは小説。
小説のない人生なんて考えられない。小説には、一人の人間への圧倒的な働きかけがある。
私は作者の苦しみから出た作品が好きだ。そしてもちろんそこから出たユーモアも好きだ。
小説は、一人の人間を救い、一人の人間を変えることができる。小説を読むのは、生きていくためと、人間を好きになるためではないかと思う。
私はずっと、人間を好きになりたいと思って生きてきた。
次のものは、睡眠。
睡眠は私を既成の価値観から守った。
睡眠にまつわる非現実は、言い換えてしまえば正真正銘の現実だった。夢は夢では終わらない。もちろん、長い期間を経て形成された既成の価値観をはなから否定するつもりは毛頭ないけれど、私は、世界そのものを感じる私を鈍らせたくなかった。
睡眠は、時間という概念に反抗することもできた。そこでは時間は一定でもなければ、決して進み続けるものでもなかった。
そして最後は、エロスだ。
私がここで言うエロスとは、一般的なエロスの意味であるセックスも含まれてはいるが、それを超えた大きな意味で、生きることそのもの、のことを指す。これはフロイトの言うエロスに似てる部分があるが、私はフロイトにそこまで詳しいわけではなく、フロイトから影響を受けてそのように考えるようになったわけではない。
私にとってのエロスとは、生そのもの、生への希求そのものであると感じたのは、生まれた瞬間から与えられていた動物的な勘によるものだと思う。
一人の人間は、自らのエロスによって自らの生を生き抜くことができるのではないか。
エロスとは希望だ。絶望すらをも含んだ希望だ。
人間は、自分を表すレッテルとして第一に職業を用いるが、(例、彼はプログラマーだ、彼女は専業主婦だ)私は、職業というレッテルよりも先に、むしろ人間はみな、「自らのエロスを追求するもの」という存在であるべきであると思う。それを胸を張って掲げるために、自らのエロスを探求するべきではないのか?
特に、生き抜くためには。
とは言っても、実は私個人のエロスには、官能的な意味での、俗にいう性(セックス)に関連するエロスが多分に含まれている。
(これ以後便宜的に、この意味でのエロスをエロと呼ぶことにする)
私は、エロは世界を救うと信じている。
私の中では、エロとエロスは密接に関わり合いながらクロスしている。交錯している。
生きるために、生きていくために、人間を好きになるために、月になるために、エロスは、エロは、私にとって、一生をかけて研究していく、これこそがそのテーマなのではないかと、私は、あるきっかけによって悟ったのだ。それはほとんど確信とすら呼べるものだった。
これまで私はエロスをまだ、恥じていた部分が、少なからずあったのかな。
エロと、エロスと、人間と愛と生と死…。
研究する人間か……あとは、ユーモアも忘れない。