今日も生きていこう

思慮深い(考えすぎな)早稲田大学文学部3年生の女が、「実践運動家でなければ哲学者になれないし、哲学者でなければ実践運動家にもなれない」という言葉を受けて、実践の一つとして試みるブログです。

無口の弊害

昨日別れ話をするときに、

俺、言ってくれないとわからないから色々伝えて欲しかった

と言われた。

 

私はどうして黙ってしまうのだろう。

どうして。

馬鹿にされたくないのか、弱いからか。

 

私は、付き合っている人には100ある自分の100を出したい、そういう人と付き合いたいのだ、と言った。それができないのが苦しいと言った。だって曲がりなりにもこんなにたくさんいる男性の中で一人を選ぶのだから、喧嘩してでも自分の全てを見せたいと思うのだ。根がロマンチストだからね(笑)

でも、それは…わがままなのかもしれない。

自分の完全に合う人間なんていないよね。

だから人はコミュニケーションして伝え合うんだよね。

私は…今あるものを大切にできていないのだと気付いた。

 

 

向こうは、人付き合いをするときはいつも自分の中に色々あるうちのどこかの部分を出しているから、俺は人には人の特徴っていうものがあると思ってるから、それぞれに合う部分の俺を見せられればいいんだ。

と言っていた。

 

なるほどな、平野啓一郎さんの分人主義かな。

 

 

私は完璧主義のロマンチストなのだろう。

 

 

あとは、付き合っている人のことを私は大事にしていたつもりになっていたけれど、全部それは自分本位のことだった。

 

ごめんなさい。

 

 

昨日別れたあと、悲しくて悲しくてやっぱり好きだと思って、今日会ってくれませんかとLINEを送ってしまった。

 

どうしようどうしよう正解がわからない。

正解なんてないけれど。わかっている…

 

 

雑事

本を読んだり勉強したり文章を書いたりして1日が終わってしまうので、主に付き合っている人と話すことがない。

 

何してるの?と聞かれると、困ってしまう。

 

私が話すことがそもそも得意ではないのと、文学に対する気持ちを伝えることが恥ずかしいと感じてしまう。

 

すごく、もどかしくて心がもやもやする。

 

 

言葉にできないことが多すぎます。

 

 

ボーヴォワール『人間について』 など

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1週間ほど前ですが、ボーヴォワールの『人間について』を読みました。

 

未来の人間や、遠くの人間を思って身動きが取りにくくなっていた私にとって、多くの発見を与えてくれた本になりました。

 

「しばしば、青年は煩悶します。この充満している中にどうして自分を割り込ませたらいいか?と。海には一滴の水さえ不足していません。彼の生まれる前にも、人類は、きっかりこのとおりに充満していました。彼が死んでも、やっぱり充満していることでしょう。」

 

これは、誰もが考えることだと思います。私もこのような考えに親しみやすい人間でした、というか、今も考えているのかな…

それと同時に、自分の存在を割り込ませることに、なんとも言い難い苦痛も感じていました。バンプの『カルマ』という曲を思い出しますね〜〜

 

「寛大な人なら、自分の行動は他人の外側にしか達しないことを弁えて(わきまえて)います。」

 

そうですね、ここにも線を引きました。

これを踏まえた上で、それでもなお他人と関わろうとする意志を大切にしなくてはならないと私は感じています。

 

 

「どんな拒絶も選択であります。どんな沈黙も声であります。われわれの受動性さえもが、意欲されたものなのです。」

 

鋭い言葉…本当に。

私の沈黙も、声なのだよ。

だけれど、私の沈黙は終わらせなければならないのだ。

書かなければ。

草や木や猫との会話に励むことで、人間との会話が難しく感じるようになってしまったことはないですか?

ああ、多和田葉子さんの作品を読みたい。

 

ジャン=ポール・サルトルが、≪否定的なもの≫と呼んでいるところのもの、すなわち、空虚、欠乏、不在が、世界の中に忍び込むのは。ただ人間の現存によるのみだということを、われわれは知りました。ある種の人たちは、この否定的なものの持つ力を行使するのを拒絶します。彼らの周囲にあっては、全てが充実しているからです。彼らは、他のいかなるもののためにいかなる場も見ません。新規なものは何にかぎらず彼らを威(おど)します。彼らには改革も力ずくで課さなければなりません。<むかしはこんな発明がなくてもけっこう住めた>と、彼らは言います。それに反して、他の人たちは待っています。彼らは希望し、要求します。しかし、彼らが要求するのは、わたくしではありません。そのくせ、わたくしが彼らによって必要なものだと思われたいのは、わたくしの存在が特異だという点においてです。わたくしの書く書物は、あらかじめ穴ぼこの形にきちんと合わせておいて、その穴ぼこを埋めに来るわけではありません。最初に書物が存在しているのです。ひとたび書物が存在するや、この現存を不在の裏側として捕らえるのは読者のすることであります。つまり、読者の自由性のみがそれを決めるのであります。」

 

 

最近の私のテーマは、「不在」です。

例えば電車内のボックス席で、見知らぬ人と膝をつき合わせて一つの空間を共にしますよね。

その人がいなくなる…ついさっきまで私は確かにその人のことを感じていたのに。その人がここに存在していた証拠は、私の感じている彼の不在、しかない…そして、彼のイメージも徐々に曖昧なものになり、薄れてしまう。

 

また、付き合っている人とセックスする。

他のどんな人間よりも近くにいて、その人を感じて、存在を確かめて、けれども、さっきまであんなに近くにいたのに、今は彼を感じることができない。

存在、不在、存在、不在………

もし仮に、今私が事故にあって死んでしまっても、彼が事故にあって死んでしまっても、その不在を、「不在」として互いが認識するのは、随分とあとのことになる。

 

私は他人のことをどこまで知ることができる?

 

 

 

 

 

「自由であること、それは、計算もなく、賭金もなく、世界の中に身を投げることです。」

 

 

「愛し、欲し、為すことが必要であります。」

 

 

 

みなさん、愛し、欲し、為しましょう。

私も、愛し、欲し、為します。

 

苦しいけれど、孤独だけれど、愛し、欲し、為す。

そうして世界に存在していく。

 

 

東京少女

 

キラキラ輝くネオンの光が少女の顔を照らしている。

 

立ち止まってはいけない。

立ち止まってはいけない。

 

少女以外の人間には、目的地があるのだから。

 

たとえ薄汚れた月が少女を呼んでいようとも、立ち止まってはいけないのだ。

 

涙のにじんだ目で少女は思う、

東京という街に、殺されてしまいそうだ。

 

ざわめきが少女をとらえる。

香水のにおい、無数のヘッドライト、道端のゲロ、欲望の予感、はっとするような笑い声、幸福の置き場。

 

 

私は、私を、見失ってしまう。

 

ひとは、現れては消える。

 

少女もまた、どこかへと消えたいった。

 

さて、

何処へーーー。

 

 

自らの行為を申し開くということ

「世人と交り、彼との間の遣取(やりとり)が一向に儘(まま)ならぬ時、私が更なる詞(ことば)を以て理解せらるを求めむとせぬのは、ただに煩を厭う故のみではない。その為に費される膨大な詞が、私には徒(あだ)ごとのように思われるからである。私の裡(うち)なる諦念は、理解を欲する情を、快不快の情に簡単に結んでしまう。日常の束の間の快の為に、多言を用いることを私は潔しとしないのである。加えて、世人の無智(むち)が、全体私の理解せられることへの希望を絶ってしまう。これは人をして、私を驕慢と云わしめる所以の心情である。しかし、敢えて反駁するならば、この驕慢は、別段独り私にのみ存ずるものでもあるまい。斯云うのは、私よりも遥かに学識優れた者の為には、私に解されむとする努力も亦(また)、等しく虚しいものであろうと思われるからである。」
(平野啓一郎日蝕』より)

 

 

私は決して驕慢な態度を示すことはしませんでしたが、言葉を尽くして説明しても徒労に終わるだろうと判断した人の前では、本質的な部分で沈黙していました。だから、上に引用した平野啓一郎さんの小説内の文章に深い共感を覚えました(ちなみに平野啓一郎さんの作品、特に『決壊』は多くの現代人に読まれるべきだと思います。長い小説ですが)。

 

私が今まで会って直接話をした人々の中で、沈黙をある程度取り払うことができた人は、本当に少ないです。一人の社会人の方と、一人の友人です。その二人に出会えたことは私にとって大きなことでしたが、心の底から共鳴する人物なんぞ、いないのかもしれません。

 

ただ時として、何も発言しないことは何も考えていないことと同じになってしまいます。
そのことは常に考えていて、けれども私自身は生きることと文学とがほとんど同義であるような人生を送ってきたため(それは博識であることとはまた別です)、言葉の限界と可能性をものすごく感じていて、それゆえに間違った言葉を発したくないという強迫観念に近い想いを抱えていました。

だけれど、早稲田大学で、この教授は信頼できる人物だなと感じている方が、
「人間は、自らの行為の理由を尋ねられたときに、申し開くことができるのだ」
(ノート上で要約しているので一語一句そのままではないです)
とおっしゃられていて、今の私にの心にとても響きました。
「申し開く」は、「account ability」と言い換えることができるそうです。「account ability 」の日本語訳を辞書で調べると、「責任を負うべきこと、説明責任」とあります。

私は、少しずつでも良いから私の行為に対する「account ability 」を実践していこうと思います。
すなわちこの投稿はその第一歩です。

 

 

 

やはりどうしても、私は今の社会が間違っている方向に進んでいるように思えます。結局のところほとんどの人々は、自分自身と自分の周囲の幸福を追求して生きているように見えます。それによって他者だったり、人間以外の何かだったりに対して代償を要求することは厭いませんね。不思議なことです。
ただ、かく言う私自身も両親に守られて今まで生きてきていますから、父と母の私への気持ちを踏みにじることはできるだけしたくない…….けれども、自らのその想いを乗り越えなくてはならない時はやって来ると思います。将来の人間たちと世界全体(人類も含めた)を見据えて生きていかなければならないから。これはあくまで個人的に強く感じているだけですが。

イデオロギーとは、
「歴史的・社会的立場に基づいて形成される、基本的なものの考え方。観念形態。一般に、政治的・社会的なものの考え方。思想の傾向。」(明鏡国語辞典より)
と定義されています。
私たちは、知らない間に様々なイデオロギーに支配されてしまっています。そして(無意識に)それに基づいて生きています。

 

そういったイデオロギーはそれこそ山ほどあると思いますが、最近特に感じているものは、
「講義に出て単位をもらえれば良い」です。

ある授業に出席し、授業内ですらあまり講義内容のことを考えず、さらにもちろん授業外ではその内容について全く再考することをしないという行為に、そこに費やされる時間に、一体どのような価値があるのでしょうか?
もちろん、卒業して安定した職を得る一番の近道は大学を卒業することでしょう。

 

………

 

私はそれを、そういう考えによって行動している人を否定はしません。なぜならそういった考えは、少なくとも今の日本社会で生きていくことを容易にする場合が多いと思うからです。

けれども、どうしても私は違和感を拭い去ることができません。

 

 

最後に、新聞記事を一つ。

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切り抜いたものを写真に撮って載せたのですが、これは確か私が高校生(正確な日付を記録していないことが悔やまれます)のときに発見したものです。ただ、「私とほとんど同じ年齢の少年だ…」と感じたことを覚えているので、高2もしくは高3の頃だと思います。
川口と浦和の距離の近さも、当時の私の心にこの少年の存在が刺さった大きな要因でもあります。

私はそれからずっと、写真立てにこの記事を挟んで自室の机の上、よく見える場所に置いています。

そして、「この少年と私の違いは一体何だったのだろう」ということを考え続けながら生きています。

とにかく、考えることを止めてはいけないのでしょう。

 

(これは少し前に考えた文章です。私の思考はそのときからも変化しています。変わっていくことを恐れてはいけないのです。)

きみ

きみのこころと

わたしのこころが近づいた、

その日のことをわたしは知らない。

 

きみを初めて見つけたときか。

きみを名前で呼んだときか。

 

きみはそこにいる。

 

きみは優柔不断であるから、

わたしは辛抱強い人間になった。

 

それともそれは、元からか?

 

きみはわたしを見つける。

きみはわたしの帰りを待っている。

 

きみがわたしを慰めるとき、

わたしはきみを、壊したくなる。

 

わたしはきみに、強制しない。

 

きみは優柔不断であるのに、

強制されるとプイとする。

 

へそ曲がりなきみ。

 

知っている。

 

きみは、近くにいる。

 

きみの前でオナニーをする。

きみのホクロの数をかぞえる。

きみの身体に顔をうずめる。

きみの牙を撫でる。

きみの目やにをとる。

きみを抱きしめる。

きみを好きだと思う。

 

きみを、鬱陶しく感じる。

 

わたしの、邪魔を、しないでほしい。

 

きみを置いていく、

目をそらして。

 

 

そして今日、

 

きみはちゃんとわたしの近くにいる。

 

わたしはきみを感じる。

 

鬱陶しいと、愛しているは、近い。

 

矛盾だ、と、人はいうか?

 

けれどもきみの、

不在を感じる、

ほかならぬわたしだから。

平野啓一郎さん

今日は神保町に行って、古本屋巡りをして来ました♪

神保町には初めて行ったのですが、たくさんの古本屋さんがあって、人々がそれぞれに本を手に取っている光景が、私はすごく好きでした。

本と街と人間が自然に共生している感じというか…。

行き帰りの電車ではスピッツを聴いたり、安部公房の「壁」を読んだりしていました。

神保町では学術系の本や、いわゆる古典というジャンルにカテゴライズされている本を買いました。

大江健三郎さんの全集も安く売られていて、やったー!と思って購入しました^ ^

大江健三郎さんの「われらの時代」という作品は特に、私にとって特別な作品です。

まあ、大江健三郎さんについての話も今度気が向いたら書きたいです。

そしてその反動…とでも言いますか、久しぶりにどうしても現代の作家の作品を貪るように読みたい(最近は知を得ようとして、学習机で鉛筆を持って気になるところに線を引きながら本を読むことが多いため、本を読むことを純粋な娯楽として楽しみたかった)と感じて、地元の図書館で現代作家の本を借りました。

その中の一つが、平野啓一郎さんの「高瀬舟」。

高瀬舟」は、以前読んだことはありましたが、彼の作品を多く読んだ今、再び読み直したいと思って借りました。やっぱり平野啓一郎さんは、天才的な部分がありますね。

個人的に、現代の日本に生きる人々に読まれるべき本を尋ねられた場合、平野啓一郎さんの「決壊」は迷わず挙げます。

平野啓一郎さんに脱帽する機会はそれこそ数え切れないほどありますが、彼のすごいところの一つは、第一作品の「日蝕」を書いているときから既に、"自分の全集を意識して"いたことです。

目先の名声や欲望や必要に屈せず、自らがやるべきこととして小説を書いていたのですね。

日蝕」「一月物語」「葬送」のような作品に取り組むことは、今の時代、本当に難しいことだと思います。

ただ、これらの作品がなければ今の平野啓一郎は存在しなかったのです。

(実際、日蝕は私もまだ最後まで読み切れていません。)

平野啓一郎という作家が存在することは、文学の世界…今の日本、世界全体…にとって、希望であるなと私は感じます。

さっき「高瀬舟」を読んで、なんとなくサカナクションの山口一郎さんにも通ずるところがある?と、ふと思いました。

どうなのだろう。

スピッツ草野マサムネさんは、その世界とはまた違うな、とも(私はスピッツからものすごく影響を受けています)。

(以下は雑記)

どんな形でもいいから、文学を通じて、他の人間と関わりたい。

そのためには、文学の世界に私も、参加することが必要だよね。

大学院に進もうとは考えているけれど、それはまだ自分が学ばなければならないことが多いと感じるから、自分はおそらく一生研究することはやめないと思うから、なのだけれど、私はどうやって文学に関わっていくのだろう?