今日も生きていこう

思慮深い(考えすぎな)早稲田大学文学部3年生の女が、「実践運動家でなければ哲学者になれないし、哲学者でなければ実践運動家にもなれない」という言葉を受けて、実践の一つとして試みるブログです。

これからも

今日は妹の体育祭に行った。

妹は高校三年生で、地元の共学の高校に通っている。

制服も可愛くて、青春がしたいのならここ!というような高校だ。

 

手作りの可愛い衣装を着て(男の子も女の子も)、みんなで声を合わせて踊っていた。

みんな可愛かったな〜、男の子も女の子も。

私は女子高に通っていて、今までは私には女子高が向いていたなって常々思っていて共学の高校に対するアコガレのようなものはなかったけれど、今日体育祭で高校生のキラキラしている姿を見て、やっかみとかではなく純粋に、「キラキラしているっていいな」と感じた。

 

きっと、私は共学の高校に通っても「青春」のようなものからはできるだけ遠ざかって過ごしただろうなとは思うけれどね。

あとは、女子高に通っていたからこそ今の私があるんだな、って、やっぱりまあ、思う。

 

異性の目がない、ということは、予想以上に個人の人格を育て(てしまう)るのよね。

 

 

今は父親は仕事、母親は飲み会、妹は打ち上げ。

家には私一人だ。

オムライスを作って、ビールを飲んで、録画していた『家ついて行っていいですか⁉︎』を見た。

『家ついて行っていいですか⁉︎』は私の一番好きな番組だ。テレビはあまり好きではないのだけれど、『家ついて行っていいですか⁉︎』とNHKの『ドキュメント72時間』は好きで毎回録画している。

テレビは、与えられたものをぼーっと見ている、というか、受け身な姿勢になってしまうツールなのであまり好きではない。本当に、私は意固地な人間なのかもなと、思う(笑)

 

その点、本は良い。読むことを選択しているのはいつでも、他ならぬ私自身。

 

それで今は、ご飯も食べ終わって、いい気持ちでテラスの簡易椅子に座っている。そしてタバコをくゆらせる。ウィンストンホワイトの3ミリ。いろいろ試した結果、ウィンストンホワイトの3ミリが私に一番合っていることがわかった。

 

涼しくなったものね。

9月。

時はどんどん経過してしまう。

 

誰もいないので、テラスで短パンとパンツを脱いで、放尿した。気持ちいい。

 

 

昨日、真夜中に田口ランディさんの『モザイク』を読んだ。良かった。

そして同時に、エッセイ『根を持つこと、翼を持つこと』も拾い読みした。

 

最近は、強がって(?)偉大なる(世間ではそう認識されている)作家の本ばかり読むことを自分に課していた。

トォマス・マンやら、ジャン・ジュネやら、三島由紀夫やら、大岡昇平やら…

もちろん、その人たちの作品も、好きである。

けれども、やはり自分を律して読まなければ小説の中に入っていけないことが大半なので(偉大な作家というものは、頭が良いようだ)、少し疲れてしまったのもまた事実。

 

そこで、図書館で偶然手に取った田口ランディさんの本を借りてきたわけだ。

あと、田辺聖子さんの本も。

 

 

それで感じたこととして、何も肩をいからせて、常に身体に力を入れて文学に向き合うことを自分に強制する必要はないな、と。

 

読んでてすごく伝わるのだが、田口ランディさんのエッセイからは、書くことが楽しい!という気持ちがほんのり届いてくる。それだけでもなんだか私も嬉しくなる。

私は、自分の生活態度を、世に言う「文豪」の人たちに合わせようとして必死だった。

だから、世界のあらゆること、政治や経済や哲学や歴史や地理…を自分の中に取り込もうと、この1年間必死だった。だけど、知らなければならないことが次から次へと出てきて、私は息も絶え絶えになっていたのだと思う。

しかもそのような勉強は、一朝一夕に身につくものでは決してないから、私は1年間歩んできた道筋を見てそのちっぽけさに悔しくなり、そしてこれから学ぶために歩まねばならない道を見てその途方もない長さにため息をついた。

 

自分が、何よりも感情だったり、直感を大切にしていることが、なぜか後ろめたくて、それだけではない自分になろうとしてもがいていた。

 

けれど、最近もう少し、リラックスして人生を生きていってもいいのかな?と感じ始めていて、まさにそんな最中に、田口ランディさんのエッセイを読んだ。

 

文学賞をとらなければいけない、

誰もが絶賛する小説を書いて自らを証明しなければならない、

 

そういう考えにとらわれていた私。

 

 

だけれどそれは、やっぱり違う!

少なくとも私にとっては、違うなって、思った。

 

 

ささやかながら、書くことで、物事をちょっとでも冷静に考えることができる、誰かの気持ちをちょっとでも楽にすることができる、

そういうことを、していきたいなって、思った。

同時に、自分のためでもあるとは思うけれど。

 

 

あとは、前からいいなあって思っていた本屋さん(かもめブックスというところ)が、なんと!求人を出していて(併設されたカフェのバリスタではあるけれど)、そこで働きたいなとすごくすごく思っている。

 

しかし、週3〜5日働ける人という募集要項で、私は大学の授業もあるので行けても週4、できれば週3にしてもらいたいと思っている。

しかも、エスプレッソマシンでコーヒーを入れたことのある人という条件があるが、私は知人の家で知人がコーヒーをマシンで入れるのを見ていたことしかない…(しかもその光景をすっかり忘れていて何も覚えていない)。

熱意はあるけれど、不安しかない。

 

また、ゆくゆくはメインのメンバーとしてお店を一緒に作っていってもらいたいと考えています、と書いてあって、私自身も卒業後にそこで働くことを考えてはいるけれど、100パーセント絶対に働きますとはどうしてもまだ、言い切れない。

 

さらに、今現在働いているとある展望台の職場で仲の良い人が、その人の知り合いの作曲家がつくる歌の歌い手さんとして私を誘ってくれている。

そういう、いわば、ミーハーなお誘いに惹かれている自分もいる。

かもめブックスで働きたら、時間的な余裕の問題でその活動はできないだろう。

 

 

でも…かもめブックスで働きたいなあ。

本当にそう思ってしまう。

先行きは不安だけど。

 

 

なんだろう、やっぱり、縁なのかな。

 

縁があるところに行くしかないかな。

 

 

うう、とりあえず、工夫して履歴書書いて、かもめブックスに送ろう。

それがどうなるか、時間が経ってみないとわからない、縁があるかもしれないしないかもしれない。

今は私の気持ちに私は従って、履歴書をかこう。

 

 

また、雨が降ってきましたね。

 

それでは。

 

 

カミュ『転落』

カミュの作品で、『転落』というものがあります。

 

正義感に溢れた人望のある弁護士であった主人公が、「社会的」にタイトル通り転落する。すなわち、弁護士としての名声や、それに付随していた何もかも、弁護士としての「彼」に備わっていた人間としての性質も含めて全てを、失ってしまう。なぜなら「転落」以前の彼は、彼の生活は、どのような自分であることが自分にとって快いのかを知っていること、それを意識してか無意識のうちでか、彼自身にもどちらなのか明確にはわからないまま、"そうあるべき自分の姿"を実践することの上に立っていたから。

"そうあるべき自分の姿"であったはずの理想の自分が、いつのまにか彼を越えて、一人歩きをしていく。そして、彼の心の中から決して捨て去ることのできなかった何かが、そのような"あるべき自分"に耐えられなくなり、最終的に「転落」する。

そんな、今となっては場末のバーの常連でしかない彼が、そこに偶然やってきたお客さん(それは私たち読者であるかもしれない)に、独白するとうスタイルで小説は進行して行く。

 

「転落」以前の主人公も、社会的に成功していること、人あたりが良く常識的な正義感溢れる自分であること、そのほか皆が羨むような自らに備わった美徳……など、そういうものを虚しいと思ってしまう自分をおそらく、心の奥底では知っていた。

 

彼は今、昔存在していた自分自身のことを、遠くから見て、自分のことではないかのように、あざ笑っているように思う。

しかしその、どこか投げやりな姿勢に、私は切なさと人間に対する深い洞察と優しさを見る。

 

心から優しい人間だから、自らが心の底では違うと思っていた生き方を、しかし世間的の人々からの賞賛の視線を集める自分自身の姿を、最終的に許せなかったのかもしれない。

 

私はカミュの『転落』を読んで泣いた。

 

 

「人生が好き」

この男の、思わずポロリと出てしまった、目をそらしたくなってしまうような丸裸の本心。消せなかった思い。

ここを読んだ時、心に衝撃が走って、目眩がした。そして、泣いた。

しばらくこのセリフがページから浮き出て見えた。

人生が好き。

ああ、私もそうだ。

 

 

カミュは自殺を否定していた。

カミュ自身も自殺はしなかった。

 

過去に生きていた私が自殺しなかった理由も、生きることを選択した理由も、「人生が好き」ということと深く繋がっているんだ、そう確信した。

 

 

私も人生が好きだよ。

人間も好きだ。

だから、

 

だから、

人間の手で地球を終わらせてしまうことを少しでも避けられれば。

わけのわからない不幸を、なくせたら。

 

 

自分ができることはなんだろう。

文学に、どういう形で関わっていこう。

人と本を繋げたい。

 

 

 

 

 

 

毎日書くしかない!

毎日書くしかないのだ!!!!!!

 

 

好きな小説

好きな小説をもとに、考えてみるか…

 

でもとにかく言えることは、私は、自分の意思で生きていきたいということ。

誰かの不幸の上に立つ幸せはできるだけ避けたいということ。

死にたいと思っている誰かに、あとちょっとだけ生きてみようかなって、思わせることができるような人生を歩みたいということ。

 

 

☆好きな小説

吉田修一「さよなら渓谷」

 

絲山秋子「ばかもの」「海の仙人」

 

山田詠美「ひざますまいて足をお舐め」

               「姫君」  「ジェントルマン」

 

平野啓一郎「決壊」

 

村山由佳「ダブル・ファンタジー」

 

多和田葉子「文字移植」

 

 

うーむ…

また今度、一作一作紹介でもしようかな。

 

 

わからない。人生…生き延びてきた人生……

 

縛られて?いるの?無意識に?

安全地帯か

 

浅草ロック座

先週の土曜日、初めて浅草ロック座に行きました。

 

本当に心の底から感動しました。

 

特に、灘ジュンさんと南まゆさんが素敵でした。

灘ジュンさんが引退ということで、ファンの方々が花束を渡していたのですが、それを見て泣きそうになってしまいました。

 

踊り子さんたちに本当に憧れました。

 

お客さんの作り出す優しいというか、あたたかい空気にも感動しました。

踊り子さんたちも、お客さんのことをすごく大事に思っていることがわかりました。

 

 

私もあの舞台に立ちたいと思いました。

その気持ちが離れなくて、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。

 

ストリップは、言葉のない芸術です。

肉体と美と魂の芸術だと感じました。

あとは、人生そのものを見た気がしました。

本当に素晴らしかった。

 

良くも悪くも言葉にこだわってきた、言葉に苦しめられて同時に生かされてきたわたしという人間が、ストリップに心を奪われたということは何を意味するのか。

 

私は、

 

どうしたらいいのかわからない。

 

自分がわからない。

 

 

 

本当は世間を気にしないで生きていきたい。踊り子、さらにはAV女優に憧れているけれど、なってはいけないのだろうか?

 

家族を悲しませるのだろうか?

 

プライドを持って、プロになるというのでも、家族は悲しむだろうか?

 

 

わからない。

 

小説も頭に入らない。

 

生きるために、私は。

私は…

落ち着くために、書いてみたけれど

 

私は、月のような人間になりたい。

平塚らいてうは、原始、女性は太陽であったと言ったけれども。もちろんそれは、心に残る、力のある文章ではある。ただ、今を生きなくてはならないから…。

確かに、私自身も太陽のような人間がいるから死の危機を乗り越えたのだよなと思うこともある。ある、というか、いつも思う。

一番身近な太陽は妹。最終的に憎むことのできない愛嬌と優しさがあって可愛らしくて、まさに自らの力で光り輝いている。

 

私は、自らの力で光るというよりは、まず、そこに存在している。ただ、存在している。

そして、太陽の力を借りて光る。

太陽のような人間のことを馬鹿にしては絶対にいけない。

今までに光を与えてくれた何人かの太陽のおかげで、私は月として光る可能性をやっと得る。

死なずに。

月は、夜になると光る。

月は、夜を照らす大きな光になる。

 

 

私は家族に感謝している。今は、父のことも母のことも妹のこともそれぞれに好きだ。

だから、私はこれからどんなことをしていくにしても、家族を大事に思う心と態度は変えない。

 

 

人間は、現れては消えていってしまう。

どこへ消えるのですか。

その不在は。

 

 

私を生かしてくれた大きなものは、家族と猫を除くと三つある。

 

まずは小説。

小説のない人生なんて考えられない。小説には、一人の人間への圧倒的な働きかけがある。

私は作者の苦しみから出た作品が好きだ。そしてもちろんそこから出たユーモアも好きだ。

小説は、一人の人間を救い、一人の人間を変えることができる。小説を読むのは、生きていくためと、人間を好きになるためではないかと思う。

私はずっと、人間を好きになりたいと思って生きてきた。

 

 

次のものは、睡眠。

睡眠は私を既成の価値観から守った。

睡眠にまつわる非現実は、言い換えてしまえば正真正銘の現実だった。夢は夢では終わらない。もちろん、長い期間を経て形成された既成の価値観をはなから否定するつもりは毛頭ないけれど、私は、世界そのものを感じる私を鈍らせたくなかった。

睡眠は、時間という概念に反抗することもできた。そこでは時間は一定でもなければ、決して進み続けるものでもなかった。

 

 

そして最後は、エロスだ。

私がここで言うエロスとは、一般的なエロスの意味であるセックスも含まれてはいるが、それを超えた大きな意味で、生きることそのもの、のことを指す。これはフロイトの言うエロスに似てる部分があるが、私はフロイトにそこまで詳しいわけではなく、フロイトから影響を受けてそのように考えるようになったわけではない。

私にとってのエロスとは、生そのもの、生への希求そのものであると感じたのは、生まれた瞬間から与えられていた動物的な勘によるものだと思う。

一人の人間は、自らのエロスによって自らの生を生き抜くことができるのではないか。

エロスとは希望だ。絶望すらをも含んだ希望だ。

人間は、自分を表すレッテルとして第一に職業を用いるが、(例、彼はプログラマーだ、彼女は専業主婦だ)私は、職業というレッテルよりも先に、むしろ人間はみな、「自らのエロスを追求するもの」という存在であるべきであると思う。それを胸を張って掲げるために、自らのエロスを探求するべきではないのか?

特に、生き抜くためには。

 

とは言っても、実は私個人のエロスには、官能的な意味での、俗にいう性(セックス)に関連するエロスが多分に含まれている。

(これ以後便宜的に、この意味でのエロスをエロと呼ぶことにする)

 

私は、エロは世界を救うと信じている。

 

私の中では、エロとエロスは密接に関わり合いながらクロスしている。交錯している。

 

生きるために、生きていくために、人間を好きになるために、月になるために、エロスは、エロは、私にとって、一生をかけて研究していく、これこそがそのテーマなのではないかと、私は、あるきっかけによって悟ったのだ。それはほとんど確信とすら呼べるものだった。

 

これまで私はエロスをまだ、恥じていた部分が、少なからずあったのかな。

 

エロと、エロスと、人間と愛と生と死…。

 

研究する人間か……あとは、ユーモアも忘れない。

 

 

 

 

どんな決断も痛みが伴うもの

人は皆、苦しみを抱えている。

 

私には一人親友がいるのだが、その人がさっき、その人にとってすごく大事な決断をした。

 

とても苦しそうだが、私はどんな状況でも彼女を信じて味方でい続けよう。

 

 

私は、大学2年生の夏合宿まで競技ダンス部という団体に所属していた。

彼女とはそこで出会った。

 

高校時代にサッカー部を途中で辞めたことが、それまで挫折経験のなかった私にとても大きな傷を残したことが心の中にあったのと、

(その後所属した山岳部ではとてもいい思い出ができたのだが)

 

一生付き合える友達が欲しいなと思い、大学で競技ダンス部に入った。

 

しかし、競技ダンス部は想像以上に過酷で、授業以外のほとんどの時間をダンスに費やすことが求められた。

同期や先輩は、ダンスを愛している人間が多かった。

 

でも、私はやっぱり、ダンス以上に本を愛していた。

そして、2年の5月くらいに、私は競技ダンスに大学生活を捧げることはできないなという結論に至った。

しかしどうしても逃げたくはなかった。

だから、誰よりも努力して、後悔しないと言えるまで練習した。

 

そうして、競技ダンス部を辞めた。

たくさんの思い出が残った。

 

後悔しないと言い切れるまでやったけれど、それでも夜中に一人、どうして私は孤独を選ばなくてはならなかったのだろうと涙出る日もあった。

 

文章も書けず、ベッドから動けない日もあった。

 

 

しかし、私は、もう一度自分の人生を生きるとしても、このように生きるだろう。

 

色々な失敗をして、それから、その上で、もっと小説を、本を愛しただろう。

 

これでいい、前を向いて生きる。

 

みんなも、前を向いて生きている。

 

 

私も周りにいる誰かを幸せにできるようになろう。

今までは、小説を書くことだけを、それなのに書けないでいる自分の悔しさばかりを、考えていた。

やっと気がついた。

 

それだけでは、いけないということ。

 

 

それを教えてくれた付き合っているY

バイト先の先輩のAさん

そしてM

 

そのほかにも、たくさん(とは言えない笑)大事にしたい人、いるじゃないか。

 

今あるものをまずは大切にしろ。

 

本を愛する気持ちは、そんなに簡単に消えるものじゃないだろう?